本:史記秦漢史の研究/藤田勝久/汲古書院

司馬遷と父の司馬談がなぜ歴史書を書いたかについて書いてあった。あと、秦の中華統一が何故短期間で崩壊してしまったかというと、郡県制は漢でも継承されているから制度のせいでは無いとのこと。ただ、制度は良くても運用した胥吏が横暴だったのではないかとのこと。陳勝呉広が、秦王子扶蘇と楚の将軍項梁を語って挙兵して、何故受け入れられたかというと、始皇帝の長子の扶蘇の母が楚の出身だったからでは無いかとのこと。また二世皇帝の胡亥の母は、側近の趙高が趙の王族出身ということから、趙の出身だったのでは無いかとのこと。