本:畠山入庵義春/志村平治/総合出版 歴研

能登畠山氏の出身で、上杉謙信の養子となり上条正繁を名乗り、徳川の時代に畠山氏に戻った、義春の話。義春は11歳で謙信の養子となり、16歳で小田原攻めに従軍する。その後、謙信に従い、関東、信濃越中と転戦する。33歳の時に謙信が没し、御館の乱では景勝に属し、勝利に貢献し、発言力を得る。39歳の時に海津城代を命じられたが、一年後謀反を疑われ、越後へ召還され、座敷牢へ幽閉される。翌年、義春は秀吉に景勝との仲を取り持ってもらうために、破牢し上方へ出奔する。それを知った景勝は激怒し、残された妻子は座敷牢へ入れられる。秀吉の家臣となり10年後、秀吉が景勝へ意見し、残された妻子は座敷牢から出される。関ヶ原の合戦後、家康に仕え、家康は景勝に妻子を義春に返還するように命じ、この時に畠山姓に復帰を命じられる。義春は家康の御伽衆になり、謙信の戦いを語ったという。その後、義春の子供三人は、景広は米沢畠山氏となり、長員は旗本上杉氏となり、義真は旗本高家畠山氏となる。

本:信濃高梨一族/志村平治/総合出版社 歴研

高梨一族の始祖から紐解き、越後長尾氏と関係を深めていくのを描く。高梨氏と長尾氏は協力関係にあり、互いに信濃を攻めたり、越後を攻めたりしている。そして、上杉謙信と高梨政頼の時代に、武田信玄信濃侵攻を受けて、次第に高梨氏は上杉謙信の家臣化していく。高梨氏の居城は飯山城だと思っていたが、実際はもう少し南の中野というところを本拠として、高梨城を築いていたらしい。その後、飯山城は上杉氏の属城と化して、上杉氏の直臣と高梨氏の家臣が守り、高梨政頼は越後に住むことになる。高梨政頼の死後、子供の喜三郎が跡を継ぐが、御館の乱の時に信長との内応を疑われ誅殺される。喜三郎の子は逃れ、成人後尾張徳川家に仕える。高梨家は喜三郎の弟の頼親が継いだ。信長の死後、上杉氏が川中島四郡を回復した時に高梨氏も信濃に復帰するが、本拠の中野への帰還は叶わなかった。その後、秀吉の時代に、伏見城の普請時に争い事があり、改易となる。その後、関ヶ原の戦いで、上杉氏が減封されて米沢に移った際に、何故か取り立てられて、明治まで続くことになる。

本:中世武家系図の史料論 下巻/峰岸純夫:入間田宣夫:白根靖大:編/高志書院

中世の武家系図がどのような経緯や意図で作られたかを書いている。興味があったのは、武田氏と上杉氏。武田氏の系図のいくつかを見ると、甲斐は一条氏の系統が住居していて、後世に武田氏のシンボル的役割を果たしている「楯無鎧」はこの系統に相伝されている。戦国期に甲斐守護を継ぐ系統は、当時は安芸守護の系譜で、南北長期に甲斐に入国し甲斐守護の系統となる。

山内上杉氏・越後上杉氏の系譜は3つあり、2つの山内上杉氏の系譜は、ある代で自己の正統性を示すために作られたと思われる。もう1つの越後上杉氏の系譜は、上杉謙信となる長尾景虎が自己の正統性を示すために作られたと思われるらしい。

本:太田資正と戦国武州大乱 実像と戦国史跡/中世太田領研究会/まつやま書房

太田資正と言えば、扇谷上杉氏滅亡後、長く北条氏に抵抗したイメージがあるがそれは間違いだとのこと。太田資正は岩付太田氏の次男で、同じ扇ヶ谷上杉氏の家臣の松山城主の難波田憲重の養子として松山城に入ったとのこと。憲重には三人の子息がいたが、天文6年の北条氏との戦いで戦死したらしい。そして天文十五年の河越合戦で、兄の太田全艦が北条氏に寝返り、上杉陣営は大敗する。扇ヶ谷上杉氏の当主朝定と難波田憲重も戦死してしまい、松山城も陥落していまう。この時、太田資正は二十四才。太田資正は上野まで逃れ、その後わずか数ヶ月後に松山城を奪還する。そして、北条に寝返っていた兄が病死し、資正は岩付城も手に入れるのである。しかし、松山城を預けていた武将が北条に寝返ってしまい、その後北条氏の攻勢にあい、天文17年に北条氏に降伏する。その後、12年間、資正は北条氏麾下の武将として活動する。そして、永禄3年の謙信の越山を迎えると、資正は北条氏に反旗を翻す。謙信に呼応して松山城を奪還し、岩付領の拡大に成功する。しかし、謙信の帰還の後、北条氏の反攻が始まる。資正は再三の北条氏の松山城攻めを耐えて見せる。その策の1つが七沢七郎である。この人物は扇ヶ谷上杉氏の生き残りだったらしく、扇ヶ谷上杉氏の旧臣の吸引力となる。2つ目が鉄砲の使用である。松山城は大量の鉄砲で守られていて、北条氏の力攻めを防ぐことに成功する。しかし、武田信玄が加勢し、鉄砲も竹束という対策が編み出される。資正は謙信の援護を待つが、謙信が来る前に松山城は開城してしまう。怒り狂った謙信は、七沢七郎の息子二人を見せしめに殺してしまう。その後、謙信は帰国し、資正の孤独な戦いがまた始まる。そして、永禄7年に嫡子の氏資が北条氏に寝返り、資正を岩付城から追放する。北条氏に抵抗すること4年間であった。その後、佐竹氏の客将となりさらに20数年に渡り、反北条の戦いを続けるが、武州へ帰ることは無かった。

本:信濃村上一族 村上源五国清/志村平治/総合出版社 歴研

村上義清の子供、国清が主人公。義清、国清は、他国の大名の取次を務めたらしい。国清は徳川家の取次を務めたらしい。国清は信長死後に、景勝が川中島四郡を支配した時、海津城代を命じられたが、信濃の大名に取り立てられたと勘違いしたのと、与力の謀反を止められなかったこと、家康の取次をしていたため、裏切りを噂されたことなどが重なり、城代を罷免され、逼塞を命じられる。山浦としての名跡は認められ、姉の子の藤清(景国)が跡を継いだ。その後、蟄居を許された国清は小田原の陣に出兵して、豊臣秀吉の直臣扱いを認められたらしい。その後、国清は没するが遅く生まれた実子の幸清が村上氏として跡を継ぐ。しかし幼かったので、名代として国清の姉の子の高国が家を継いだ。その後、幸清と高国が内紛を起こして、幸清は上杉家を飛び出してしまう。関ヶ原の役の後、藤清は米沢に移ったが没し、高国が跡を継ぐ。しかし、高国はその後、上杉家を出奔し、水戸徳川家に代々使えることになった。幸清は村上家の大名復活運動を徳川家康、秀忠に訴えたが実ることは無かった。

本:北信濃の武将 村上義清伝/志村平治/新人物往来社

村上氏の系譜から始まって、村上義清の活躍が描かれる。村上義清は、2度も武田信玄に敗北を味わせてるが、武勇には優れていても、政略には弱かったらしく、真田幸隆に次々と家臣が寝返りをされ、ついには越後の上杉謙信の元へ逃れることになる。川中島の戦いは、5回の内4回は参加しているが、5回目は流石に老齢のため参加しなかったらしい。結局、義清は信濃の領地を回復することが出来ないまま、越後で死ぬ。後は、五男の国清が後を継いだ。信長死後に、川中島を手に入れた上杉景勝は国清を海津城代に指名したが、足元から謀反人を出したため、罷免される。その後、秀吉の天下で朝鮮征伐の最中に国清は死亡する。後は、景国が継ぐが、関ヶ原合戦後に上杉家を離れることになる。その後、所領回復運動を徳川家に訴え続けるが、叶うことなく終わる。