本:太田資正と戦国武州大乱 実像と戦国史跡/中世太田領研究会/まつやま書房

太田資正と言えば、扇谷上杉氏滅亡後、長く北条氏に抵抗したイメージがあるがそれは間違いだとのこと。太田資正は岩付太田氏の次男で、同じ扇ヶ谷上杉氏の家臣の松山城主の難波田憲重の養子として松山城に入ったとのこと。憲重には三人の子息がいたが、天文6年の北条氏との戦いで戦死したらしい。そして天文十五年の河越合戦で、兄の太田全艦が北条氏に寝返り、上杉陣営は大敗する。扇ヶ谷上杉氏の当主朝定と難波田憲重も戦死してしまい、松山城も陥落していまう。この時、太田資正は二十四才。太田資正は上野まで逃れ、その後わずか数ヶ月後に松山城を奪還する。そして、北条に寝返っていた兄が病死し、資正は岩付城も手に入れるのである。しかし、松山城を預けていた武将が北条に寝返ってしまい、その後北条氏の攻勢にあい、天文17年に北条氏に降伏する。その後、12年間、資正は北条氏麾下の武将として活動する。そして、永禄3年の謙信の越山を迎えると、資正は北条氏に反旗を翻す。謙信に呼応して松山城を奪還し、岩付領の拡大に成功する。しかし、謙信の帰還の後、北条氏の反攻が始まる。資正は再三の北条氏の松山城攻めを耐えて見せる。その策の1つが七沢七郎である。この人物は扇ヶ谷上杉氏の生き残りだったらしく、扇ヶ谷上杉氏の旧臣の吸引力となる。2つ目が鉄砲の使用である。松山城は大量の鉄砲で守られていて、北条氏の力攻めを防ぐことに成功する。しかし、武田信玄が加勢し、鉄砲も竹束という対策が編み出される。資正は謙信の援護を待つが、謙信が来る前に松山城は開城してしまう。怒り狂った謙信は、七沢七郎の息子二人を見せしめに殺してしまう。その後、謙信は帰国し、資正の孤独な戦いがまた始まる。そして、永禄7年に嫡子の氏資が北条氏に寝返り、資正を岩付城から追放する。北条氏に抵抗すること4年間であった。その後、佐竹氏の客将となりさらに20数年に渡り、反北条の戦いを続けるが、武州へ帰ることは無かった。