本:藤田能登守信吉/志村平治/総合出版社歴研

北条、武田、織田、上杉、と主を変え、最後に徳川大名となった藤田信吉の生涯。藤田宗家は山内上杉氏重臣の一つで、信吉はその分家の用土氏出身。信吉が生まれる前に、藤田氏は後山内上杉氏を見限り、北条氏に降っている。信吉が生まれた年に、本家の当主が死去し嫡系男子がいなかったため、後北条氏より氏邦が藤田氏へ養子に入る。20歳の時に、兄が北条氏に毒殺され、信吉はその後継として沼田城代になる。2年後22歳の時、氏邦が信吉が沼田城代であることに反対しているなど、確執があったため武田氏に降る。当初は勝頼に直属していたが、のちに真田昌幸に沼田支配を委ね、信吉はその麾下となり、確執が生じる。2年後24歳のとき、武田氏が滅んだため織田氏重臣滝川一益の配下となる。しかし、直ぐに本能寺の変で信長が死去し、織田軍が退去することになった時に、滝川氏に沼田の支配権を渡すように交渉するが、滝川氏は真田に渡すというので、信吉は実力で沼田を奪おうとして敗れ、越後へ逃れ、上杉景勝の配下となる。その後、景勝の元で、北条氏との川中島の取り合い、新発田重家との戦い、佐渡征伐、小田原の役、文禄の役と、活躍する。この頃の信吉は上杉氏配下で第八位で、約三千石を知行していた。1600年、42歳の時に上杉家内で家康との対決姿勢が高まる中、信吉は家康との連携を主張して孤立し、会津を出奔し家康の元へ奔る。関ヶ原合戦後、家康より下野西方で一万五千石の大名に取り立てられる。その後、家康に降った景勝と和談し和解し、上杉氏への帰参を願ったが許されなかった。その後、徳川麾下の大名として取り潰し大名領の受け取りなど軍役を務める。57歳のとき大坂の陣に榊原康勝組の軍艦として参加したが、指揮を批判される。その後、59歳で死去し後継が居なかったため、藤田氏は改易となる。