本:終点のあの子/柚木麻子/文春文庫

柚木麻子が、オール読者新人賞を受賞した短編「フォーゲットミー、ノットブルー」を1章として、全4章の連作集として、発行したのがこの作品。プロテスタント系の女子高に通う女子高生たちの意識が描かれている。

當真あみが主演の、映画「終点のあの子」がとても面白かったので、読んだ。映画は1章を元に作られている。1章は中学からの持ち上がり組の希代子が、高校から入学した変わり者の朱里に心を奪われるが、朱里の日記を読んでから、朱里を貶めたくなり密かに実行するが、全てが露見して、残りの女子高生活を孤独に過ごすことになる。

2章は希代子の中学からの友達の森ちゃんが、高一の夏に自分を変えたくて、禁止されていたバイトを密かに行い、それによって変わった自分がクラスメイトに一目置かれることを夢見るが、夏休みが明けてみると、他のクラスメイトも変わっているので、全然目立てない自分に気づく。また、朱里に夢中な希代子に蔑ろにされ怒っていた自分が、他人に同じことをしているのに気づく。

3章は希代子、森ちゃん、朱里のクラスで一番の美人で、クラスのカーストトップのグループの中心人物である高校からの入学組の恭子が、夏休み前に自慢だった大学生の恋人に振られ、腐っているが行き場がないため偶然入った図書館で、クラスでも最低にダサくBL好きの保田に偶然会う。保田が普段クラスで見せない感じで、小説を進めて来て、それを聞く恭子との日々が続くが、関係は破綻し、登校日を持って、恭子は自分たちのグループに戻り、また保田も自分たちのグループに戻る。

4章は大学に進学した朱里の話。朱里は他人とは違う自分を確立するのにもがいており、他人を見下していると恋人に指摘され別れを言い出される。父親が有名カメラマンのため、カメラは避けて、進学した美大で色々な科目に手を出していたが、どれもしっくりと来なかったため、結局カメラに手を出して、カメラに夢中になる。父親の写真展で、朱里の写真も数点置いてコラボする話があったが、写真展のスポンサーから、朱里の写真はそのレベルに達していないと指摘され落ち込む。大学で出会った、杉ちゃんと杉ちゃんの実家広島に旅行するが、そことで杉ちゃんが広島に帰るつもりだと告げられると、朱里は反発して杉ちゃんから離れて電車に飛び乗って逃げ出すが、電車の中でこれでは希代子と同じで、全く進歩していないと悟り、駅に戻って杉ちゃんを探し謝るが、杉ちゃんは受け入れてくれた。

本:「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜/早川タダノリ/朝日文庫

1925年ぐらいから始まり、1945の敗戦まで続く、「日本スゴイ」を主張する数々の出版物を紹介する。

この戦前の「日本スゴイ」活動が戦後にも脈々と受け継がれていて、また戦前と同じ「日本スゴイ」主張が現在氾濫していて、日本人が全く反省できていないことに慄然とする。

 

 

本:関ヶ原大乱、本当の勝者/白峰旬:編/朝日新書

各編をそれぞれ、別々の担当者が執筆。

上杉景勝編:山形攻めは、最上氏を滅ぼして山形を占領するための戦ではなくて、最上氏と援軍の伊達氏を屈服させ、徳川領へ侵攻する際の先手勢として動員させるための、戦いだったので、最上勢の戦力を削ぎたく無かった、とのことで、長谷堂合戦の敗北だけで直江兼続を戦下手とするのは間違い、とのこと。山形からの撤退は、関ヶ原本戦での西軍の敗北を受けてとの見方が一般的だが、そうではなくて越後の堀氏と村上氏が庄内へ出陣するという情報を得たために、それに対処するための撤退だったとする。

最上義光編:長谷堂合戦後の上杉軍撤退への追撃で、上杉軍を徹底的に撃破できなかったことに対し、伊達政宗は「最上衆が弱いので大利を得られなかった」と語っているらしいが、最上氏は領国から上杉軍を追い出すのが目的だったので的外れの指摘で、逆に伊達氏は上杉氏の領地を獲得したかったので、そのような発言になったのだろう、とのこと。

前田利長:「加賀征伐」は無かった、との立場。利長と家康の関係は悪化していた史料はあるが、決定的な対立は見出せないとのこと。家康との講和については一般的には、利長が母親を江戸へ人質として送った事から、利長の家康への屈服と見られている。しかし、このとき利長母親は大坂で人質だったのであり、大坂から江戸に移したに過ぎない、また利長正室を始めたとした女房衆が金沢へ戻るのを認められているので、一方的に譲歩したわけでは無い、とのこと。関ヶ原の戦いで利長が一旦は南下したが、途中で引き返したのは、大谷吉継の金沢への海上勢力の侵攻の噂に踊らされたとの見方が一般的だが、実は南下の目的である伏見城が落城したこと、越後で一揆が起きた事、などから、越後へ救援を出すために、戻ったとのこと。

鍋島直茂:直茂と家康の関係は、関ヶ原前は良好だったとのこと。上杉討伐時、直茂と嫡男の勝茂は大坂にいて、直茂は従軍を願い出たが、家康から本国に戻って黒田官兵衛と共に九州の押さえとして欲しいと言われて、帰国したとのこと。勝茂と龍造寺高房は、直茂は家康に従軍するように指示していたが、なぜか勝茂が西軍に加担してしまったとのこと。勝茂は伊勢平定軍にいたが、家康が美濃に到着したので、伊勢軍も大垣へ集中することになったが、勝茂は伊勢押さえとして残留したいと願い出て許されている。関ヶ原での西軍の敗北を受けて、勝茂は大坂城へ戻り自ら謹慎して、家康が戻ると直茂の従来の忠義を持って、許された。そして立花宗茂討伐に先勢となることを命じられる。一方で、九州へ帰国した直茂は西軍の決起に動揺していたらしく、黒田官兵衛に8月に上方へ援兵は出さないと手紙を出して積極的な動きは見せず、9月には黒田官兵衛に今後は書状は出さないと、事実上絶縁を宣言している、とのこと。

結局、直茂、勝茂の両方とも西軍に加担していたことなる。後年に勝茂は嫡男に対して、秀吉から陪臣の嫡男に過ぎないのに官位を授けられ、非常に光栄に思っていて、関ヶ原では西軍が豊臣政権の正統側と信じ、秀吉の恩顧に報いるため西軍に加担し、それで龍造寺・鍋島家が滅んでも構わないと思っていた、と語ったとのこと。

本:近代日本の対中国感情 なぜ民衆は嫌悪していったか/金山泰志/中公新書

少年雑誌に見られる、小説や挿絵から、戦前の対中国感情を読み取る。

日清戦争から中国への嫌悪感が始まったとされることもあるが、その前から嫌悪感を持っていたとのこと。戦前に、少年誌に「チャンチャン」と書かれていて、これは当時の中国の弁髪を豚の尾っぽに見立てて「豚尾(チャンチャン)」と呼んだものだった。

日清戦争が始まると、清国への敵愾心を露わにした表現が、少年誌に載るようになる。中国人のネガティブイメージとして、金に汚い、中国兵は卑怯、臆病である、不潔などが、少年誌で表現される。

現代人の中国兵、中国国民に対しては、嫌悪感を持っていたが、中国の古典世界、儒教、楚漢戦争、三国志水滸伝、などに出てくる、孔子は尊ばれ、関羽張飛は称賛されている、とのこと。これは、1945年に敗戦するまで変わらなかった、とのこと。

大正期に映画が始まると、日本に限らず欧米の映画でも、中国人は悪人として描かれていたとのこと。この時期は、中国と日本は戦争状態に無かったが、対華二十一ヶ条などで、反日感情が高まっていたこともあり、政府は映画であまり中国人を悪く描かないように通達したりもしていたらしい。

満州事変・日中戦争が始まると、少年誌には中国人を貶める記事が多く載るようになるが、その際に表現されるのが「小癪な」という言葉らしい。第一次世界大戦を経て、世界の一等国になったと自認する日本国民は、中国は見下す相手のため、歯向かってくると、小癪なやつと見られていたとのこと。

本:世界史リブレット ラシード・アッディーン モンゴル帝国期イランの「名宰相」/渡部良子/山川出版

イル・ハン国の宰相で、歴史書「集史」の著者というだけの知識で読んだ。

キリスト教徒で、単独の宰相ではなく「宰相格」とのこと。イル・ハン国は、意外と早く滅びていて、9代しか続いてないこと。宰相も9人いるが、1人を除いて全員処刑されているとのこと。「集史」のうち、相当な部分が他人の著作の丸写しだった、とのこと。

イル・ハン国のモンゴル集団が、フラグ(トゥルイ家)の家臣団で構成されたわけではなく、

オゴダイの時代に派遣され、イラン地方の征服した一地方を統治していたモンゴル軍が、フラグが派遣された時に統合され、またフラグの遠征軍も各王家から派遣された集団から構成されていて、フラグは雑多な集団からなるモンゴル軍を制御しなければいけなかったとの事だった。

本:三河雑兵心得 拾四 豊臣仁義/井原忠政/双葉文庫

伏見に常駐していた茂兵衞は、家康の命令により、余命1月と宣告された、小田原の大久保忠世に会いに行って、忠世が持っている豊臣とのパイプを教えてもらうように、命令される。茂兵衞は、芦ノ湖で、後北条氏の旧臣の風魔一族に急襲されて、100挺の鉄砲のうち、20挺を奪われる。小田原で忠世から応援を得て、芦ノ湖に潜んでいた風魔一族を巻狩り式に、一網打尽にし、頭領の風魔小太郎を捕える。小太郎は、茂兵衞の家族や隠し子の事まで知っていて、脅しにかける。茂兵衞は忠世に小太郎を預けて、忠世は小太郎を小田原の地下牢に押し込めて、風魔一族の残党が小太郎を奪回に来るところを狙って、根絶やしにしようと試みるが、忠世が徳川配下の大名として家臣を旧後北条家臣から採用した中に、風魔一族と繋がっているものがいて、小太郎を逃すことに成功する。

小田原から伏見に帰る途中、茂兵衞は一人娘の婿について思案する。

伏見で、秀真田昌幸から、秀吉が秀次に会いに行く途中に、狙撃されて秀吉が秀次の仕業と思い、激怒して秀次を処罰するとの噂話を聞かされる。茂兵衞は、風魔小太郎の仕業だと、直感するが、鉄砲を奪われた不名誉な話が絡むので、誰にも言わない。

茂兵衞は徳川の京屋敷に行き、留守居の鳥居と松平と相談して、在京の秀忠を秀次を人質としてとらわれるのを防ぐため、伏見に秀忠の身を移そうとするが、秀忠が婚約中の小江と一緒に逃げると言って聞かない。小江は、豊臣一族のため、聚楽第の城内に住んでいるため、聚楽第に入り込み、さらに小江を説得する必要性が出てくるが、茂兵衞は聚楽第の門番を、秀吉の命令だと嘘をついて、押し通り小江と秀忠とともに伏見に脱出するのに成功する。

京都の留守居よりの急報により、京都へ急遽上洛した家康は、石田三成よりすでに秀次は切腹して果てたと事務的に連絡され、京屋敷で徳川家臣たちに、三成に対して立腹してみせる。

茂兵衞は、三成は理詰めで納得する人物と見ていて、福島正則は粗暴過ぎて性に合わないとしてた。

伏見の地震で、家康から秀吉の無事を見に行かされるが、加藤清正におぶわれた秀吉と遭遇して、清正とはほぼ初対面だったが、意外と知的に感じる。

茂兵衞は、秀吉が弟の秀長を亡くし、千利休、秀次を切腹させ、蒲生氏郷も病死し、養子の秀勝も朝鮮で病死、と、一門が弱体化する豊臣に滅亡を感じ、ワンチャンス徳川にもあるかも、と夢想する。

本:『史記』はいかにして編まれたか 蘇秦・張儀・孟嘗君列伝の成立/斎藤賢/京都大学学術出版

史記は、年代があってなかったり、人物の活躍年代があってなかったりするが、それをどのような意図で作られたかの視点で見る。

検証の題材として戦国中期の列伝が選ばれたのは、戦国中期は「戦国策」など史記の記述と比較して検証できる史料があるからとのこと。

それぞれの列伝は、司馬遷やその父により、史料が集められ、ある一定の意図で作られていて、その意図にそって、年代の移動や、エピソードの捏造も行われているとのこと。

蘇秦などは、戦国期には縦横家というものはいなかった、とのことで、漢の武帝時代に確立していた縦横家の立場に引っ張られているとのこと。漢代の縦横家がいるために、合従連衡のエピソードが作られたとのこと。

ちょっと難しい本だった。