本:政党と官僚の近代 日本における立憲統治構造の相剋/清水唯一朗/藤原書店

初代、政党内閣、隈板内閣について。従来4ヶ月しか持たなかったため、低くみられがちだが、立憲政治確立への挑戦をもっと評価すべき、とのこと。一気に政党政治の確立を目指した大隈に対し、政党政治はまだ早いとする板垣の間で、対立が生じる。初めて政権を獲得した民間代議士たちは、藩閥勢力が利権を獲得して利益を得ていたのを羨望の眼差しで見ていたのと、当時の代議士は貧窮に瀕している者も多かったため、中央、地方のポストに着くために、各自が猟官運動を起こした。大隈は、官僚の政党政治への反感を減じるため、ポストの変更数を抑えていたため、ポストを得た一部の者に対し、ポストを得れなかった為、反感を持つ多数の代議士の不満が爆発する。混乱の中、隈板内閣は崩壊を迎えた。

桂園体制下において、政党政治の萌芽が生まれる。藩閥内閣も議会を制するために政党との提携をするため、政友会をパートナーとして選んだ。桂園体制、その後の藩閥内閣へ協力した政友会は、管制の改革を進めようとする。内閣が政府を指揮するために、官僚たちのトップへ政治家がつく必要があるとし、どこまで政治家を官僚のポストに着けるかについて、藩閥勢力、官僚勢力との戦いが起きる。

西園寺から政友会総裁に指名された原敬は、当時の政府は元老による使命を受けて天皇から大命降下が起きる仕組みだったため、隈板内閣の崩壊以後の政党政治に国家統治能力があることを証明しなければならなかった。元々官僚出身の原は、出身地の東北、関東においても基盤を固めておらず、政友会内での権力が盤石では無かったため、結党以来の代議士を抑えるため、官僚たち、実業家たち、をスカウトして、政友会に入会させ、党の主要ポストにつけることにより、政友会での地位を盤石にする方法を取る。藩閥内閣への協力を通して、政府統治の経験を積み、官僚の入党により、政権運営に対する元老たちの懸念を払拭した、原政友会は、

ついに原に大命降下がおり、本格的な政党内閣が誕生する。原は官制の改良によって政党政治が官僚をコントロールする仕組みを構築していく。

こうして、政党勢力が藩閥勢力と並び、権力を得る事が確実視されるようになった事で、

官僚たちは政党に認められなければ、官僚の上がりのポストであった局長や次官が政党側に握られたため、官僚の階段を登るだけではポストに付くことが出来ないことを理解し、

入党し代議士となる道を選ぶ者が出てくる。これは、官僚の第一世代、第二世代が藩閥と結びついていたため、政党政治に反感を持ち官僚を辞する者がいたのに対し、第三世代は大学出身者で藩閥に染まっておらず、当時大学で憲法の講義を行なっていた美濃部達吉の影響で、政党政治の時代を迎えていることを理解し、受け入れていた。

原の暗殺後、政友会内部の権力争いが起こる中、藩閥内閣へ戻ったことに対する民間の反発が護憲運動に発展する。政友会は、護憲運動に与して政権を奪取するか、従来通り藩閥と協力して政権に参画するかで、党内の対立が深まり、ついに政友会と政友本党に分裂する。

選挙が始まると、政府が次に起こるであろう政党内閣から処罰を受けることを恐れた内務省官僚たちが、選挙運動への干渉を控えたために、この時の選挙は珍しく公平に行われた。

護憲3派が勝利を得ると、元老の西園寺は護憲3派の最大勢力の憲政会首領の加藤高明を使命して、2大政党政治時代が始まる。首相の加藤は、憲政会に主導による官制改革を目指す。元々憲政会と政友会では、目指す官僚統治感が違っていたため反発が起こるが、加藤らは3派の維持のため、政友会と妥協しつつ、政党政治を確立することになる。

ここにおいて、官僚と政党との棲み分けが明瞭になり、初期の政党へ入党した官僚は一気に主要ポストへ着くことが可能だったが、政党へ入党した官僚にも入党歴を問われる時代になったため、進んで政府での権力を得ようとする官僚たちは、若くして官界を離れて政党へ入党する動きが加速する。

政党内では、政友会の原も憲政会の加藤も、最初は官僚出身者によってポストを独占させるが、次官、大臣に任命するための経験を政党人にも積ませて、将来は政党人の登用も考えていたが、政党人が事務活動などを忌避したため、両党ともに政策立案と政党の主導を官僚出身者が、党務は党人が行うという分担構造が採用されることとなる。

 

初の本格政党内閣として、原敬内閣が