本:木戸幸一 内大臣の太平洋戦争/川田稔/文春新書

木戸幸一は、明治維新の元勲である木戸孝允の甥の長男として生まれ、木戸侯爵家を継ぐことになる。

木戸と近衛文麿と西園寺公爵の側近の原田は、同じ大学出身で親しかったとのこと。

木戸と近衛は西園寺に見込まれていたらしい。

木戸は内大臣秘書官長に抜擢される。その時代に、満州事変が起きるが、軍部を抑え込むために、若槻首相は宮中に助力を求めるが、木戸や一木内大臣、鈴木侍従長と会談をして、内閣が対応するようにと答えたとのこと。ただし、実際には一木内大臣や鈴木侍従長は、若槻首相をサポートするように動いていたらしいが、木戸は親密な軍部から情報を得ており、木戸は天皇に軍部の不満を伝えて、若槻首相をバックアップする発言をしていた天皇に、そのような発言はすべきではないと進言しており、軍部を抑え込むことには消極的だったらしい。

木戸は軍部に政党政治が対応することは出来ないので、陸軍に寄り添って「善導」するのが上策としたらしい。この理由として、木戸は政党政治に国策がないが、陸軍は国策を持っているとしていたらしい。しかし、実際には当時の与党民政党は「国際協調、平和主義」の政策を持っていたが、木戸は政党の国策は空論であり政策ではない、陸軍の政策が正しいと思っていたために、この様な動きになったらしい。

第二次世界大戦勃発後に、木戸は内大臣に就任する。

ドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶ際に、天皇英米との対立を懸念を示したが、時の近衛首相、松岡外務大臣、木戸内大臣は、三国同盟を結んでアメリカへ圧力を掛けてこそ、アメリカとの対立を避けられるとの論法で説得したらしい。

最後の元老である西園寺公望は最後まで議会主義と英米協調を唱えていたが、木戸は今は議会主義は滅ぼさねばならない、議会主義の牙城は西園寺公であると非難し、西園寺に情報を伝えず、無視していたらしい。

陸軍が南部仏印へ進駐したことを受けて、アメリカが禁油を通告した以降どのように対応するか色々動いた結果、近衛首相はルーズベルト大統領との直接会談で解決しようとしたが、木戸も賛成し、この時に近衛と木戸はアメリカの提案を丸呑みする腹だったらしい。しかし、ルーズベルトが事前にある程度の合意が無いと会談はしないと通告されると、事前協議は陸軍が反対するため、直接会談は実現しなかった。

近衛が内閣総辞職した時、木戸は内大臣として東條陸相を後継として推薦した。木戸が東條を選んだのは、対米戦を決定した御前会議を白紙に戻し、アメリカと交渉せよとの天皇の言葉を受けて実施できるのは、天皇の言葉に忠実に働くと見られていた東條以外には無いと考えたかららしい。

太平洋戦争が始まると、天皇が東條を信頼していることを知っている木戸は、宮中より東條を支え続けることになる。ミッドウェー海戦ガダルカナルでの敗退を受けて、東條下ろしを重臣たちが画策し始めるが、なおも天皇が東條を信頼しているため木戸も東條を支える。木戸は重臣などが進言することを妨げていたらしい。

サイパン陥落後に、ついに木戸は日本の降伏を考え出すが、搭乗はあくまで抗戦を主張していたため、次第に離反するようになる。この頃は重臣を含めて複数の勢力が東條内閣を倒閣させようと動いているが、いずれの勢力も国民のためではなく、国体護持のためであった。降伏に向けて、東條をスケープゴートにしようと考えていて、そのためには日本国内へ攻められるまで待つという、国民の犠牲は無視した考えで動いていた。そして倒閣に至る。

木戸は重臣たちと一緒に聖断を演出し、日本降伏へと至る。