本:明智光秀と斎藤利三 本能寺の変の鍵を握る二人の武将/桐野作人/宝島社新書

明智光秀は、織田信長接触した後、急激に台頭を始める。そして、主に近畿に領国と与力大名を持ち、近畿方面軍司令官という立場になる。著者によると、光秀はこの立場は織田政権のナンバーツーと認識して高いプライドを持っていたのではないかととのこと。光秀には妹がいて織田信長に近侍して内々の使者を務めるなど、信長と良好な関係を持っていたとのこと。この関係は光秀にも良い関係をもたらした考えられるが、その妹が天正九年に死去している。これも信長と光秀の関係に変化をもたらしたと考えられるとのこと。斎藤利三は元は稲葉一鉄の与力で、光秀に引き抜かれたのでは無いかとのこと。この他にも、同じ稲葉家より武将を引き抜き、稲葉家が信長に訴えて、光秀の元から稲葉家へ戻されている。この際に斎藤利三切腹させるように命じられたとの話や、それを光秀が匿ったなどの話がある。また柴田勝家の家臣を引き抜いたとの話もあるそうだ。急速に台頭した光秀は自分の家臣団を充実させる必要があり、そのため引き抜きを行ったのでは無いかとのこと。天正八年に本願寺を降伏させた後に、攻略が手ぬるかったとして、佐久間信盛が改易されているが、その理由の一つに蓄財に励む一方で、家臣団を充実させなかったと挙げており、光秀もこの一件で自分も充実させないと、いつ改易させられるか分からないと思ったのでは無いかとのこと。また良く挙げられている、信長が光秀を折檻したとの話だが、フロイスの記録、稲葉家の記録、斎藤利三の子孫の話などの出典があり、事実だと著者は見ている。また、近畿の所領を召し上げられ、出雲と石見を与えると言われたとの話があるが、これも光秀ではないが、秀吉の所領の長浜が堀秀政に与えられようとしていたらしし、菅谷長頼も越前の前田利家能登に移しその後に据えるという話があったと言い、信長が近畿を自身の血縁と直臣で固めようと構想していてのでは無いかとのこと。実際に起きた例として、滝川一益が関東へ移封されている。あれやこれやが重なり、ついに信長が少数の家臣と共に京都に来て、さらに嫡男の信忠も京都に来たため、一気に織田家を滅亡させることが出来ると見て、本能寺の変の二日前に決断したのでは無いかとしている。なかなか面白い考察の本だった。