本:証言 本能寺の変 史料で読む戦国史/藤田達生/八木書店

光秀が謀反を起こしたのは、秀吉との西国政策争いに敗れたからだとのこと。足利義昭が京都を追放された1573年以降も義昭の将軍としての立場は全国の大名に効果を及ぼしていて、信長対義昭の対立軸になったとのこと。そして、1575年に信長が右近衛大将に任官し幕府を開くことが出来得る地位に登ると家臣や他国大名からは上様とも呼ばれるようになり、本願寺が降伏する1580年には、義昭を凌駕することになったという。それでも義昭の鞆幕府は毛利氏と共に機能していたが劣勢は明らかだった。信長の三職推任で、関白か太政大臣か将軍のどれを選ぶか任されたとの話だが、信長は将軍を選んでいたとのこと。光秀が謀反を起こしたのは、光秀が旧体制の幕府体制を擁護する武将だったため、信長による鉢植え大名化が耐えられなかったとのこと。また、謀反は直前で決めたのではなく、上杉景勝に事前に使者が送られているのが確認されているという。その他、細川氏や筒井氏などにも打ち明けていたのでは無いかとのこと。当然、光秀は義昭を推戴するつもりでいたので、事前に情報を流していたのではとのこと。秀吉が光秀に勝ったのは、情報収集能力が抜群だったからではとのこと。西国政策争いで勝利した秀吉は、光秀が謀反を起こすことを予見していて、本領の長浜と死者の往復を確保していて、本能寺の変が起きたのをすぐさま正確な確度で入手出来たのでは無いかとのこと。また家康の神君伊賀越は伝説で、実際には甲賀者が主に家康に協力していたとのこと。吉宗の代になって、お庭番として採用された段階で伊賀者が協力したという伝説が作られたとのこと。2010年の著作。