特攻は成果があったされるが、巡洋艦、戦艦、空母など主力艦にダメージを与えた事はなく、護衛空母や輸送船などへしかダメージを与えられて無く、また命中した数はそれなりにあるが、トン数で計算すれば微々たる成果である、との事である。
航空特攻は大西瀧治郎が考え出したとされているが、大西が司令につく前に海軍上層部ですでに決められていたとのこと。
また航空特攻隊員は、海兵出身者は選ばれず、予科練(下士官)、予備学生出身者が選ばれていたとのこと。
また特攻では、成果の有無では無く、死ぬことを求められたとのこと。ある特攻隊員が、自分は敵艦に爆弾を当てる自信があるので投擲後に帰還しても良いかと、指揮官に確認したところ、死んでこいと言われたとのこと。また、戦争末期はまともな飛行機が無いため整備不良で帰還する兵も多かったが、なぜ死んでこなかったかと、罵倒され死ぬまで特攻に行かされたとのこと。
また特攻は志願兵であるとされているが、指揮官からは「志願を募れば全員志願するに決まっているので、こちらで任命する」と言われていたらしい。また陸軍では、そもそも志願など名目にもして無かったらしい。
連合艦隊司令長官の古賀峯一長官が飛行艇で移動中に死亡した際に、同じ編隊にいた福留繁中将は不時着し、現地抗日ゲリラの捕虜となり、また機密書類も処分しなかったが、ゲリラが日本軍の攻撃を受けて解放されると、福留は東京の査問で、ゲリラは適正は少ないという意見や、たとえ捕虜であったとしても短期間であり実害は無かったとして、不問にされた。実際は機密書類は米軍の手に渡っており、日本軍の計画を知った米軍は日本軍の攻撃に大いに利用している。特攻兵は死ねと言われるが、上級将軍は不問にされるのが日本軍である。